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賴惟清旧宅(らいただすがきゅうたく)

 県史跡

  • 所有者 個人 
  • 所在地 本町三丁目12-21 
  • 指  定 昭和32年9月30日

  

 この旧宅は幕末の尊皇攘夷運動(そんのうじょういうんどう)に大きな影響を与えた『日本外史(にほんがいし)』の著者として知られる賴山陽(らいさんよう)の祖父、賴惟清(ただすが)紺屋(こうや)(染物屋)を営んだ場所です。
 家屋は安永4年(1775)頃の建築であり、入母屋(いりもや)塗込造本瓦葺の母屋と単層屋根切妻(きりつま)造本瓦葺の離れ座敷からなり、裏庭には賴山陽の詩を刻んだ碑が立てられています。

 賴惟清は、宝永4年(1707)頼兼屋(よりかねや)弥右衛門(やえもん)善祐(よしひろ)の長男として竹原に生まれました。賴家の祖先は小早川氏に仕え、三原の頼兼(よりかね)村に住んでいたと伝えられていますが、惟清の曾祖父の時に竹原に移住して海運業を営み、祖父の頃に紺屋を始めたと伝えられています。

 当時、竹原下市村では竹原塩田が大きな富を生み、上層町人の文化活動が大変盛んになっていました。惟清は父から「男の子が生まれたならば学問をさせよ」と言われていました。それは元来、年寄、庄屋などの役目をもつ家でもなく、商人としても規模が小さく、文化活動に参加する余裕もなかった弥七郎の、子孫に託した夢でもあったのでしょう。

 その意思を継いで、惟清自身も家業の傍ら、近所の学者塩谷道碩(しおたにどうせき)に学び、町年寄吉井豊庸(よしいとよつね)に和歌の手ほどきを受けるなど、有力町人の文化活動に参加していくことによって家庭内にそのような学問的雰囲気をつくることに努めました。

 惟清は、春水(しゅんすい)春風(しゅんぷう)杏坪(きょうへい)という3人の息子を、父の言葉のとおり、学問の道に進ませます。
 

 春水は、家族の期待と協力にこたえて勉強に励み、ついに当時の封建的な身分制度をのりこえて広島藩儒(ひろしまはんじゅ)となり、広島藩だけにとどまらず、幕府の昌平坂(しょうへいざか)学問所(がくもんじょ)でも講義するなど、一町人の身から、大名の教育にも携わる高名な学者になりました。
 
 春風は、医者と儒学者を兼ねて竹原の家を継ぎ、郷里の発展に力を注ぎます。
 
 杏坪は、春水とともに広島藩の儒者となり、三次方面の代官になる傍ら、広島藩の地誌『芸藩通志(げいはんつうし)』を編さんするなど、行政官としても、学者としても活躍しています。

 春水、春風、杏坪の
兄弟は、後に「三賴(さんらい)」と称せられ、学問、詩文、書とともに全国に名声を響かせ、その後も賴家からは、春水の子の山陽や、山陽の子の三樹三郎(みきさぶろう)など、歴史上に名を残した人物や優れた学者が数多く輩出されています。

 惟清には、生涯の望みとして、「男子を学者にすること」「富士山を見ること」「家を新築すること」の三つがありましたが、この望みはいずれも子供達によって実現されました。

 賴惟清旧宅は、賴家の礎を築いた惟清の居宅である江戸中期の建築が残されており、賴一門発祥の地として重要な意義を持っていることから、昭和32年9月30日に県の史跡に指定されました。





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開館時間午前9時〜午後5時
料金無料
 
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